小さな編集部

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3人の子を持つ父親が「天気の子」に心動かされた話

 封切りからだいぶ経っていますが、新海誠監督の「天気の子」を観てきました。観てから2日ほど経ちますが、「いい映画だったなあ」という思いがじわじわと強くなってきましたので、久々に感想を書いてみたいと思います。盛大なネタバレになりますので、作品をまだ観ていない方はご注意ください。
 

 

「天気の子」は我が子に見せられる作品か

 Wikipediaで新海監督について調べてみると、監督は1976年生まれの46歳、奥さんと娘さんがいらっしゃるようです。ぼくとほぼ同じ世代で、子供がいるところも同じなんだなと思いました。
 
 これはぼくの想像でしかありませんが、新海監督はこの映画を作るときに、娘さんが自分の作品を観ることを意識しただろうと思います。親になってみると分かりますが、我が子の目を意識せずに仕事をするのは難しいことです。新海監督の場合、娘さんに見せられないような映画はなかなか作れないのではないかと思います。
 
 ですからぼくの想像では、新海監督は娘さんに見せられる作品として、むしろ積極的に観てほしい作品として「天気の子」を作ったはずです。そう解釈してみると、「いい映画を作ったなあ」という思いがあらためて強くなりました。
 

褒められない主人公たち

 とはいえ、主人公の帆高をはじめ、この映画の登場人物は決して褒められた人たちではありません。
 
 帆高は離島から東京へ家出をしてきた高校1年生で、生活に困ってフリーライターの助手をします。住み込みで食事付きとはいえ、月給3,000円というひどい境遇です。そして偶然とはいえ拳銃を手に入れ、発砲してしまいます。挙げ句の果てに警察に捕まり、逃亡まではかります。
 
 ヒロインの陽菜は中学3年生で、小学生の弟とのふたり暮らし。母親はおそらく亡くなっており、父親は登場しません。親のいない境遇にも負けずに生きていますが、生活は豊かではないようです。歳を偽ってマクドナルドでアルバイトをして、年齢がばれてクビになり、お金を稼ぐために風俗の仕事をしようとします。
 
 二人とも、親目線では絶対にやめてほしい行動をしています。実際にこんなことをしたら警察沙汰になると思いますし、周りに大変な迷惑をかけるでしょう。
 
 とはいえ、これらは枝葉に過ぎません。帆高と陽菜の行動で決定的に褒められないのは、世界を救うか自分たちが生きるかの二択の場面で、後者を選んでしまうことです。
 

世界の理に逆らう

 帆高と陽菜は、異常気象のため、数カ月にわたり雨が続く東京で出逢います。
 
 帆高は家出少年、陽菜は親のいない中学生ですから、その出逢いには最初から貧困の影があります。二人は貧しさにくじけずにたくましく生きていきますが、陽菜が特別な能力を持っていたことがきっかけで、物語は大きく動いていきます。
 
 東京の異常気象には、実は人知を超えた超常の力が働いています。そして陽菜は偶然、その超常の力に干渉する能力を得ます。陽菜が祈れば、雨のやまない東京に、一時的に晴天を招くことができるのです。
 
 帆高は陽菜の能力を知ってから、お金を稼ぐため、依頼主の求めに応じて空を晴れさせる「晴れ女」のサービスを思いつきます。このサービスは大成功しますが、陽菜は晴天を招くたびに超常の力に取り込まれていき、しまいには人身御供として神隠しに遭ってしまいます。
 
 陽菜が神隠しに遭うと、東京で降り続いていた雨は嘘のように晴れ上がります。超常の力に干渉することには代償があり、最後は人身御供として神に召されることで異常気象は収まる。それがこの世界の理でした。
 
 取り残された帆高は世界の理を受け入れることなく、陽菜を取り返すために必死になります。帆高は拳銃を発砲したり警察から逃亡したりするわけですが、それは陽菜を取り返すためにしたことです。帆高の行動は大騒動になり、周りに大変な迷惑をかけますが、その甲斐あって、最後には超常の力から陽菜を奪い返すことに成功します。
 
 しかし、人柱である陽菜を取り戻した結果、東京はその後3年経っても雨が降り続き、大半が水没するなど甚大な被害を受けます。陽菜が人柱になることを受け入れていれば、東京の異常気象は終わり、多くの人が困らずにすんだでしょう。しかし、帆高と陽菜は、世界よりも自分たちを選んだのです。
 
 二人の行動に大義はなく、正義もありません。世界よりも自分たちを優先するのが「天気の子」の登場人物たちです。
 

「天気の子」を見た人の評価とセカイ系

 Yahoo!映画の評価を見ると、「天気の子」に★4か★5を付けた人は64.5%、★1か★2を付けた人は20.3%でした。6割以上の人たちに高評価されるのはすごいことだと思います。ただ、メガヒットした前作「君の名は。」は前者が76.5%、後者が14.4%です。前作と比較すると、高評価の人が少し減り、低評価の人が少し増えています。低評価の人の感想を読んでみると、帆高と陽菜の行動に共感できないという意見をよく目にしました。
 
 ぼくは映画批評家前田有一さんの批評に納得することが多く、何か映画を観ると必ず「超映画批評」を読ませていただいているのですが、「天気の子」は「今週のダメダメ」に選ばれていました。「君の名は。」でせっかくつかんだメガヒット作の方向性を否定し、一部の層にしか支持されない「セカイ系」に戻ってしまったことを残念がっておられました。
 
 「セカイ系」というのは、主人公の人間関係(特に恋愛関係)が世界に影響を及ぼす一連の作品群のことです。「セカイ系」には優れた作品もたくさんあるのですが、話が極端な展開になることが多く、一般受けするものは多くありません。そのためか、「セカイ系」は、「思春期特有の心理状態を象徴する、大人向けではない、子供っぽい作品」を邪揄する言葉として使われることもあります。
 

日本の黄昏と「天気の子」

 「天気の子」が「セカイ系」なのかどうかはここでは論じませんが、思春期特有の思いに焦点が当たっていることは間違いないと思います。そして帆高と陽菜は、思春期特有の思いに従った結果として、東京を水没させてしまいます。
 
 雨がやまず、水没した東京を背景に、二人が抱き合って手を取り、帆高が「ぼくたちは大丈夫だ」と言うシーンでこの映画は終わります。この終わり方に、あまりにも自己中心的すぎると憤慨する方もいらっしゃるようです。
 
 最後に帆高が「ぼくたちは大丈夫だ」と言うのを聞いたとき、ぼくは非常に考えさせられました。映画館を出てからもあのシーンのことが何度も頭に浮かび、心が動かされたことを感じました。
 
 日本のゴールデンタイムが終わろうとしているまさにこのときに、帆高にあの台詞を言わせた新海監督は、やはりものすごいクリエイターだと思いました。「天気の子」は、この黄昏の時代に世に出すべき作品でした。
 
 総務省統計局の発表によると、日本の総人口は2019年7月22日の時点で1億2622万人です。国立社会保障・人口問題研究所が2017年4月に公表した「日本の将来推計人口」を見ると、2029年に人口は1億2000万人を下回り、その後もさらに減少して、2053年には1億人以下になると予想されています。 
 
 人口の減少に合わせて、日本の国力は衰えていくでしょう。この問題は、経済への影響が大きい生産年齢人口(15〜64歳)に注目してみるとよく分かります。 日本の生産年齢人口は、1995年の約8700万人がピークでした。2015年の段階で約7700万人、たった10年で1000万人も減少しており、2060年には約4800万人まで減少することが推計されています(参考文献「2018年版 中小企業白書」、中小企業庁)。
 
 つまり、日本は今後50年くらいのうちに、働いてお金を稼ぎ、活発に消費をする人が4割も減ってしまうのです。日本の経済力が衰えれば、他国とのパワーバランスも崩れていくでしょう。劣勢を覆すために、日本では今後、「世のため人のために」生きろという声が、特に中高年から若い人たちに向けて、強まっていくだろうと思います。
 
 そんな暗闇の時代が、日本ではこれから長く続きます。ぼくたちはそうなる直前の、黄昏のなかを生きています。
 

時代の空気を敏感に捉える若い世代

 ぼくには3人の子供がいますが、彼らは今が黄昏の時代であることを感じ取っており、大人になる前から身構えているように見えます。
 
 ぼくの働いている会社には、春に新卒の若者が入社しました。彼らを遠目で見ていると、その真面目さと堅実さに驚きます。今の若い人たちは、時代が自分たちに何を求めているのかを、敏感に感じ取っているのではないかという気がします。
 
 これから先、坂を転げ落ちるように国力を失っていく日本。ぼくの子供たちを含む、若い世代の人たちが、どんな苦労をするのか想像できません。しかし若い彼らは、真面目に、誠実に、その苦労に向き合うのではなかという気がしています。
 
 若い人たちに苦労してもらわなければ国が成り立たないとは思いますが、それを宿命と思ってほしくないという気持ちが、ぼくの心のどこかにあります。
 
 仮に彼らの代で日本が滅んだとしても、彼らに罪はないでしょう。滅びの原因をつくったのはぼくらの代であり、そのまた上の代であり、さらにそのまた上の代だからです。600年続いた超大国オスマン帝国は、メフメト6世の治世を最後に、1922年に滅亡しました。しかし、滅びの兆しは1600年代から散見されます。メフメト6世の治世に生きた人たちだけに、オスマン帝国滅亡の責任を問うことはできません。
 
 栄枯盛衰は世界中で繰り返し起きていることですから、若い人たちには、限度を超えて時代を、社会を背負ってほしくないと思います。時代に向き合いすぎて、潰されるべきではありません。
 
 いざとなれば年老いたぼくら中高年を捨ててもいいですし、滅ぶようならこの国を去ってもいいと思います。そしてそのときに、いたずらに罪の意識を抱えず、「ぼくたちは大丈夫だ」と言ってほしいと思います。そこには大義も正義もないかもしれませんが、罪もまたありません。彼らに罪は最初からないのです。
 

「天気の子」に思うこと

 陽菜が神隠しに遭い、東京が晴れ渡り、帆高が彼女への思いを胸に秘めてひとり生きるという選択肢もあったと思います。しかしそれは、社会にとって都合のよすぎる美談でしかありません。
 
 「天気の子」に出てくる雨に沈んだ東京には、衰退しつつある現実の日本が重なって見えます。これから先、日本の国力が衰えていけば、「世のため人のために」という言葉が、今まで以上に飛び交うと思います。下手をすれば、「社会のために命を捧げろ」とまでいわれる可能性があります。しかし、自分や、大切な人を犠牲にしてまで「世のため人のため」に行動するべきなのでしょうか。東京を水没させないために、陽菜は人身御供になるべきだったのでしょうか。
 
 ぼくたち人間は互いに助け合わなければ生きていけない以上、「世のため人のため」に行動しなければならないときもあります。しかしそれは、自分と大切な人たちの命をしっかり守り、それでも余裕があるときに初めて考えればよいことです。
 
 「世のため人のため」という言葉は、ぼくたち中高年が、若い人たちを都合よく利用するときに使う常套句であることに注意するべきです。その言葉が耳に心地よければよいほど、誰かの意図が巧妙に紛れ込んでいる可能性があります。
 
 確実に信じられるのは、言葉にできない自分の思いです。例を挙げるなら、ぼくたち中高年が敬遠し、ときにはばかにする思春期特有の思いも、確実に信じてよいもののひとつでしょう。
 
 この人だけは大切にしたいという強い気持ちを抱いたら、国や社会よりもその思いを大切にするべきです。そのために国や社会が滅んだとしても、それが何だというのでしょうか。国や社会は、あなたや、その人を大切にしないかもしれないのに。
 
 ぼくは「天気の子」を、自分の子供たちに観てほしいと思います。できれば、誰か好きな人と一緒に映画館に行ってくれれば最高です。
 
 そして「天気の子」を見終わった今、ぼくが恐れているのは、自分の身を守るために、若い人たちに「世のため人のために」生きろと言ってしまうことです。下手をすると、我が子に「家のため親のために」生きろと言いかねません。
 
 今は元気で仕事もあるからいいのですが、職を失ったとき、老いたとき、病気で寝たきりになったとき、子供たちに「俺のために」生きろと言ってしまうのではないか。そして子供たちは、それに従ってしまうのではないか。今、それを恐れています。
 
 映画館へ「天気の子」を観に行ったらどうかと勧めた長男は、友達を誘って観に行くことにしたようです。映画館から帰ってきたら、彼には「もし親を捨て、国を捨てたとしても、それが大切な人を守るためなら大丈夫だ」と、今のうちに言っておきたいと思っています。
 
 久々に、本当によい映画を観させていただいたと思いました。